日々、覚えたことを忘れていくのを実感する…

でも、1つのことを思い出すと、それに関連して他のものも思い出す。

それを思い出すまでは、それは私の中では消えたままである。

でも、見えないものでも存在している。

 

金子みすゞ

「星とたんぽぽ

青いお空の底ふかく、

 海の小石のそのように、夜が来るまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。

  見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

 

散ってすがれたたんぽぽの、

 瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。

  見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」

 

 

私のその一瞬の意識は、記憶と、今見たり聞いたりしているものなど五感を通じた知覚からなるような気がする。

でもそれってすごく狭い視点で物事を捉えてしまうのではないか。過去の溢れるばかりの情報が私の頭の中でしか整理されてないとなると、ある出来事を狭い視点によって考えるように促されてしまうような気がする。

 

人間の記憶は、長期記憶と短期記憶、感覚記憶などからなるらしい。リハーサルすることによって、長期記憶に移動するが、私の頭は、長期記憶に入ったものでも、何日後あるいは何週間後、何か月後、何年後には忘れてしまっている。(一度見聞きしたものでも、覚えているものと全く見聞きした覚えのないと思うものの違いってなんだろう。)

 

コンピュータのように、補助記憶装置に保存しないと。

ノートやスマホのメモに書いたり、日記に書いたり、長期的に保存できる何かに情報を収集し、整理しておきたい。その情報は、その瞬間にしか得られないかもしれないから。

となると、日記って良いのかもしれない。その時に感じたことや考えたことって、その時にしか得られないかけがえのないもの。その記録は、自分の一部である。長期記憶に限界があるとするならば、記録しておくことは過去の自分を知るのに大変役に立つと思う。その記録が、記憶の単位に反応し、他の記憶も呼び起こすかもしれない。

 

しかし、アインシュタイン

「世界一、考えることが好きになろう。知識は重い負担にならない――そう信じている人は、思い違いをしている。

古くさいガラクタでいっぱいになった人は、めったに新しいことを思いつけない。頭を空にしておくほうがいい。

知識のためには図書館がある。そこでなら、いつだって知識が君のためにまちかまえてくれるし、行くまでは口をつぐんでいてくれるのだから。」

 

知識は邪魔をするときもある。

多くの知識がステレオタイプ的な発想を植え付けてしまうのか。でも、多様な情報を知ることで、1つのものが別のものと結びつき、新しい何かを生み出すきっかけとなるかもしれない。とにかく、知識に埋もれるのではなく、発想する、想像する、考えるなどして、頭を働かすことが大切。

そんなときのために、記録がある。頭の中に抱えきれなかった記憶は、図書館にもあり、自分の日記にもあり、ノートにもある。

 

なんだろう。だんだん自分を愛しくなってきた。

今生きているこの自分も唯一無二の存在であり、考えていること、感じていることをこうして記録することによって、マインドフルネス的な視点で自分を見ることができると感じた。そうすることによって、なんだか自分の心に余裕が生まれて、可愛く思えてきた。

 

これは、自分に恋するかもしれない。

眠くなってきました。

 

 

松本侑子 2022 100分de名著 金子みすゞ詩集 NHKテキスト より、金子みすゞの詩を引用。

図書館を知る・今月のことば