言語化は必要か?
最近、モヤモヤする日が続いている。
もしかしたら、言語化するのが怖いのかもしれない。
言語化すると、現実を直視することになるからだ。
曖昧なまま気づかないふりしていたほうが、感情的にならないかもしれない。
でもそれって、きっと体にはストレスがかかるのだろうな。心は気づかないけど、モヤモヤは、体を蝕んでいくかもしれない。
私は、家庭内暴力を間近で見ていた時、恐怖を感じたくなかったため、あえて頭の中を空っぽにしていた。そしたら、極端に怯えることはなくなった。しかし、喜びの感情も分からなくなっていった。喜びも、悲しみも、怒りも無い。
だから、感情はネガティブなものであっても、発散した方が良い、と思う。
感情が先か?言語が先か?分からない
いや、そもそも感情と言語は切り分けて考えるものかもしれない。
言語を習得していない赤ちゃんは、怒ったり泣いたりする。動物も、そうだ。
自分が感情を抑え込んでいったプロセスが分からない。
私は、怒ってはいけない、と強く信じていた。怒りは、誰かを傷つけるかもしれないからだ。
しかし、自分が怒っていることに対して、自分を決して責めてはいけないと、今に思う。
自分の感情をありのままに受け入れることが、自分を慈しむことであり、自分を知ることだ。
だから、どんな感情も受け入れる。
きっとそれが、自分らしく生きることにつながっていくのだと思う。
自分をもっと大切にしよう。
自分の感情、思い、考えを大切に扱おう。
大好き。
一歩前進
住んでいる環境って大事だな
最初にブログを投稿した日からこんなに経っていたけど、
今の家の住み心地はとても良い。
だから、余分なストレスがない分、色々なことに挑戦したいと思う余裕が生まれている。
でも、時々生まれてしまう
不安…
今日も現れてしまいました。
もう大きなものは現れないと思っていたけど、
今日のそれは、時々感じるものとちょっと違う。
多分、久々に新しいことに挑戦することに伴う緊張が、トリガーだったかもしれない。
合気道!
ずっと気になっていた、心を整える方法を教えてくれると思って
ほとんど毎日ずっとテレワークで、
人と対面で話す機会は少なかった。
その上、仕事以外にも交流する人は少ない。
対人コミュニケーションに対しての苦手意識もある。
そんな私にとって、合気道の見学に行くという経験は、とてもハードルの高いものであった。
合気道の教室を見つけたときは、絶対にやりたいと思った。だから、この日が来るのを楽しみにしていた。
しかし、当日、こんなに緊張するとは思わなかった。
この緊張によって、私の身体は身構えてしまったのかもしれない。
呼吸が浅くなり、食べ物が喉を通らない。
パニックになる前兆のようなものを感じていた。
そして、だんだん、どうして私は見学だけでこんなに緊張してしまい、
こんなに身体の不快感を感じてしまうのか、
そのことに対して、とてもやるせない気持ちになった。
なんだか、緊張する自分をみじめに思えてきた。
そして…
自分で自分を褒めて、愛でたいと思った。
そして、思った。
きっと、教育って、何かに挑戦したとき、失敗したときに、
大丈夫だよ、とフォローする、
その人の存在によって、失敗するかもしれないという状況に対して恐れずに挑戦できる拠り所
そんな基盤や環境をつくっていくことが大切なのかな、と思った。
見学してみたら、大丈夫だった。
時間は一瞬一瞬、流れていく。
慣れないことによる緊張は、怖いね。
でも、挑戦して失敗しても、やらかしてしまっても、自分を愛でる。
あるいは、そんな誰かを愛でる。
それは、人の成長にとってとても大切なのかもしれないと思った。
行動する前に負の結果を予測して、行動しない結果、おそらく潜在的なストレスが蓄積していくより、
負の結果を予測したとしても、その後の自分へのフォローを考えてみる。
もちろん、負の結果は周囲にとって悪い影響を与えることもあるので、
見極める必要もあると思う。
まずは、自分で自分を愛でたい(笑)
そして、誰かのことも愛でたい。
挑戦することって楽しい。もっと自分のことを好きになるかもしれない。
もっと、人を好きになるかもしれない。
私にとっては、一歩進んだ日であった。
音楽いいね
日曜日、ムロフェスに行ってきた。
ムロフェス、すごい。
約12時間の中でいろんな感情が引き出された。
バックドロップシンデレラ、やばいって興奮して、
ねぐせ。ステージ前方で聴いて踊っていると、ダイブに直撃、髪乱れ、浄化され、
3markets[]、社会のゴミ、カザマタカフミを笑い、
yonigeに癒され、
それでも世界が続くなら、泣いた。
フェスは孤独を癒やす。
エネルギーを与えてくれる。
アーティストも観客もみんな一体となってフェスをつくり、
互いが互いにエネルギーを与え合う。
暑かったけど、体から湧き出す汗と一緒に、体の毒素も抜けたような気がする。
このフェスな感じは、クセになる。
岡本太郎が好き
岡本太郎、かっこいい、でもかわいい部分もあるって思った。
まず、彼の生き方がかっこいい。これは、最初に彼の著作「自分の中に毒を持て」を読んだ時に実感した。彼は命懸けで全力で生きている。
そして昨日、岡本太郎美術館で彼の作品、彼の映る写真や映像などを見ていくと、彼の生き様がよりイメージできた。彼の絵はエネルギーの塊のようだった。あらゆる万物の中に潜む生命力を表現しているように思えた。そのエネルギーは、それ自身が気づかないくらいに燃えていて、私にも力を分けてくれそうだった。私も、自身の中に何か込み上げてくるものを感じた。自分自身の中にも、今まで気づかないふりをしていたエネルギーを感じることができた。
彼は、自分を持っている。自分の力を存分に使っているように思えた。のびのびとしていて、かっこいい。彼の生き様が、絵に現れていた。岡本太郎。彼みたいに生きたい。
かわいいと思ったのは、彼が料理を振る舞うところ。お手製の料理をお客さんのためにつくる。何の会だったか忘れたが、岡本太郎はお客さんに手料理をふるまったらしい。着物を着て、抹茶もいれていた。なぜだかわからないけど、とても愛しいと思った。岡本太郎は若い頃フランスで生活していたので、フランス料理が好きなのも愛しい。生肉を使った料理をふるまって周りを驚かせたこともあるとか。みんなに自分が好きだと思ったものを差し上げるところなのかな、好き。
彼はね、陶芸もやっていた。お茶碗とか湯呑みとか、平皿とかつくっていた。彼は、下手でいいといっている。「自分の中に毒を持て」でも言っていた。手づくりは下手の方がよいと。人間味があって夢がひらくから。そして、笑っちゃうほど不器用な方が楽しいって。彼は、いろんなものをつくっていた。置物から実用品まで。とにかくどんどんつくって生活を豊かにしていく。
これは、まさにエネルギーの開放のように思う。
下手だからといって、萎縮して何もしないというのは閉じていく。これは、むなしい生き方だ。もっとたくさんつくって、開いていこう。
そうか、まるでエネルギー解放のサイクルが見えた。彼が生命のエネルギーを見出し、彼がそれを描くことで彼自身のエネルギーを発散する。それを見た者は自身のエネルギーに気づき、発散したいと思う。
たくさん描いて、つくって、つくって、描きたい。人間らしさ、機械ではない、本当の人間の営み。社会が変化しているからこそ、本来の生き方を見失いがちになるかも。エネルギーをうまく使えなかったり、自身のエネルギーに気づいたりすることができないかもしれない。あるいは、エネルギー不足になるかもしれない。いや、でもそれはわからない。現代に限らず、どんな時代もそうなのかもしれない。みんなどの時代の人も、時代についていくのに必死なのかもしれない。戦争とか病気の流行とか、技術や制度が発展する前は、おそらく今よりも大変だったかもしれない。
エネルギーよ、私はあなたを上手く操りたい。

■
日々、覚えたことを忘れていくのを実感する…
でも、1つのことを思い出すと、それに関連して他のものも思い出す。
それを思い出すまでは、それは私の中では消えたままである。
でも、見えないものでも存在している。
「星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、夜が来るまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」
私のその一瞬の意識は、記憶と、今見たり聞いたりしているものなど五感を通じた知覚からなるような気がする。
でもそれってすごく狭い視点で物事を捉えてしまうのではないか。過去の溢れるばかりの情報が私の頭の中でしか整理されてないとなると、ある出来事を狭い視点によって考えるように促されてしまうような気がする。
人間の記憶は、長期記憶と短期記憶、感覚記憶などからなるらしい。リハーサルすることによって、長期記憶に移動するが、私の頭は、長期記憶に入ったものでも、何日後あるいは何週間後、何か月後、何年後には忘れてしまっている。(一度見聞きしたものでも、覚えているものと全く見聞きした覚えのないと思うものの違いってなんだろう。)
コンピュータのように、補助記憶装置に保存しないと。
ノートやスマホのメモに書いたり、日記に書いたり、長期的に保存できる何かに情報を収集し、整理しておきたい。その情報は、その瞬間にしか得られないかもしれないから。
となると、日記って良いのかもしれない。その時に感じたことや考えたことって、その時にしか得られないかけがえのないもの。その記録は、自分の一部である。長期記憶に限界があるとするならば、記録しておくことは過去の自分を知るのに大変役に立つと思う。その記録が、記憶の単位に反応し、他の記憶も呼び起こすかもしれない。
しかし、アインシュタイン
「世界一、考えることが好きになろう。知識は重い負担にならない――そう信じている人は、思い違いをしている。
古くさいガラクタでいっぱいになった人は、めったに新しいことを思いつけない。頭を空にしておくほうがいい。
知識のためには図書館がある。そこでなら、いつだって知識が君のためにまちかまえてくれるし、行くまでは口をつぐんでいてくれるのだから。」
知識は邪魔をするときもある。
多くの知識がステレオタイプ的な発想を植え付けてしまうのか。でも、多様な情報を知ることで、1つのものが別のものと結びつき、新しい何かを生み出すきっかけとなるかもしれない。とにかく、知識に埋もれるのではなく、発想する、想像する、考えるなどして、頭を働かすことが大切。
そんなときのために、記録がある。頭の中に抱えきれなかった記憶は、図書館にもあり、自分の日記にもあり、ノートにもある。
なんだろう。だんだん自分を愛しくなってきた。
今生きているこの自分も唯一無二の存在であり、考えていること、感じていることをこうして記録することによって、マインドフルネス的な視点で自分を見ることができると感じた。そうすることによって、なんだか自分の心に余裕が生まれて、可愛く思えてきた。
これは、自分に恋するかもしれない。
眠くなってきました。
松本侑子 2022 100分de名著 金子みすゞ詩集 NHKテキスト より、金子みすゞの詩を引用。
図書館を知る・今月のことば
本日、珈琲焼酎つくってみた
はじめて、珈琲焼酎をつくってみました。
いいちこのWebページを参考に、珈琲豆を焼酎につけてみました。
大好きな珈琲と、最近興味をもったお酒の組み合わせ。
焼酎は、親戚の人からいただいたもの(いいちこ)があったので、それを使用しました。
珈琲豆は、深煎りの豆を使用しました。
珈琲豆は、焼酎のほかにも、ビールやウイスキーなど様々なお酒と合うことが分かりました。
保存期間は約1か月。
その間に、就職に向けての準備が進んでいることでしょう。
勉強も進めていきたい。今よりも、とりあえずこの期間は知識を蓄えている状態になりたい。
1か月後、珈琲焼酎は完成しているでしょうか。美味しくなっているでしょうか。
その頃の自分は、ちゃんとこれから生きていくために必要な知識を吸収しているでしょうか。
楽しみです。
この4年間に意味を見いだしたい1
もうすぐ卒業の季節
この4年間を無駄にして過ごしてきたのではないか
最近になって後悔している。
しかし、これまで過ごしてきた時間を
雑に扱いたくはない。
過去の時間を現在に生かし、未来につなげていきたい。
4年間の生活
コロナ禍で2年間、過ごした場所は家が中心。
授業、授業、授業、バイト…
熱中できるほどの趣味になかった。
夜は眠れなかった。
眠れないことへの不安が、不眠を悪化させた。
頭の中は常に不安でいっぱいだったため、
楽しいことをしようという気力も湧かなかった。
その結果、最初の2年間は特に、どうすれば眠れるか
ということしか考えられなかった。
サークルにも所属しなかった。
狭い家にただただこもっていた。
薬を飲んでから変わった。
今思うと、薬の効果は小さく自分の思い込みによって
気分を上げ下げしていたのかもしれない。
でも、薬を飲んだという安心感もあり、
徐々に眠れるようになったし、
不安なことは考えなくなった。
3年生
実習はなんとか乗り切った。
外出自粛が緩和され、自由に出かけられるようになった。
しかし、横転して廃車したので、
田舎に住む私にとって、自由に出かけることは困難であった。
歩いても歩いてもコンビニ、スーパーくらいしか行けない。
結果的に、家にこもることが多かった。
薬を飲まなくても大丈夫だったが、だんだん再び神経質になっていった。
4年生
就活はなかなかうまくいかなかった。
また眠れなくなった。
さらには、不安になって動悸・身体が硬直することも何度かあった。
生きていればいいや、当時はそう思っていた。
働ければどこでもいいや
もちろん、一生懸命働かせていただくが
それが今となっては、欲が出てきてる。
その当時は、死に対する恐怖が異常なほど大きかった。
身体の微細な症状に対し過剰に反応して、
生死に関わるものではないかと怯えていた。
とにかく生に対する執着が甚だしかった。
生きているだけで満足していた。
現在の私は、そのような不安症状が大分落ち着いてきた。
生きていることが前提となり、今も生きていることが通常の状態であると
認識している。
今は、生きること以上の欲が出てきている。
見つけた意味1
そっか、1つは生への感謝の心が大きくなったかもしれない。
死ぬことへの恐怖が大きくなって、常に死とか病に怯えて生活した経験から、
生きていることの喜びや、感謝が大きくなった。
また、毎日家で過ごすだけでも幸せに感じるようになった。
不安から解放された直後はそのように感じていた。
あたりまえって怖い。
今は、生きていることが当たり前という感覚になっている。
その感覚は良いのか悪いのか分からない。
しかし、いろいろなことをやりたいっていう欲がでてきている。
可愛くなりたい、ライブに行きたい、資格取りたい、旅行行きたい…などなど
欲が満たされると、それよりもより高次な欲を望んでしまう。
生きていることやご飯を食べられること、家があること、
自分の思う自由の範囲が大きいこと…
それは本当に幸福なことで、感謝しないといけないと思う
一方、現状に満足しないことは、行動の動力になることも実感している。
今が大変で窮屈だから、未来に向かって頑張ろうという思いが芽生える。
しかし、現状に満足しないこともそれは視野を狭くするかもしれない。
落ち着いてきた今日の日こそ、今日に感謝したい
あたりまえに認識しつつある現在の生活に喜びを見いだしたい。
そのうえで、将来の目標とするキャリア構築のため、
頑張っていこう。
もちろん、本当に危機的状況にある時は、
その中に無理くり幸せを見つけるのではなく、
誰かに頼ることが大切。